「見える謝罪」だけが誠実だと思っていませんか?
「Adoが関与していないなんておかしい」
「ブランド価値を下げた」
AdoのMVが“無断使用”で公開停止…「一切関与しておりません」釈明がブランド価値を下げてしまったと言えるワケ
気持ちはわかります。
でも、今回のAdoさんの対応をよく見ると、責任を放棄したのではなく、責任を果たすための最善の判断だったのかもしれません。
🧭 元記事の主張は、ここまでは確かに正しい
Adoさんは、もともとボカロ界隈の“歌い手”。
でも今は、世界観やビジュアルまで自ら構築する“アーティスト”として知られています。
だからこそ、「Adoは作品に対して大きな責任を負うべきだ」という主張は理解できます。
ここまでは納得です。
⚠️ でも、そこから“飛躍”している
問題は、「責任が重いなら本人がすべて背負うべき」と考えてしまうところ。
だから「一切関与していない」という言葉が“逃げ”に見える。
ここで、元記事の引用を見てみましょう。
「Ado本人、および本MVの制作チーム(イラスト:沼田ゾンビ!?様、映像編集:Syamo.G様、文字デザイン:Haる様、映像制作:KZM様)は、制作過程において許諾取得の提案や法務確認の手続きを行う立場ではなく、本件の無断使用については一切関与しておりません。」
たしかに、この一文だけを読むと違和感を覚える人もいるでしょう。
“作品を作ったのに、関与していないとはどういうこと?”──という疑問です。
しかし、これは「誰が謝るか」という形式的な議論に引き寄せられた見方です。
たとえるなら、建築士が「この建物の責任は自分にある」と言うからといって、構造計算を必ずしも自分でやる必要がないのと同じです。
むしろ専門家に任せることで、責任を“確実に果たす”のです。組織で働いたことがあれば誰でも分かると思います。
今回も大事なのは「どう責任を果たしたか」であって、「誰が前に出たか」ではありません。
✅ 実は、きちんと責任を果たしている
ユニバーサルミュージックジャパンの声明を読むと、「本件はひとえに弊社の管理体制の不備によるもの」と明言されています。
つまり、企業として責任を取り、関係者の名前を公表し、MVも停止。
被害を受けたクリエイターにも対応している。
すでに誠実な手順が実行されているんです。
🔑 ここが一番のポイント
声明文にはこうあります。
「Ado本人および制作チームは、法務確認の手続きを行う立場ではない」
と。
一見すると「関わってない」と聞こえるけれど、実はこれは“判断を専門家に任せる”という明確な選択です。
つまり、
- 自分で“これは大丈夫”と判断するのではなく、
- 法的確認を適切な専門部署に委ねる。
これは、プロとしてのとても誠実な分業です。
「わからないことを、わかる人に任せる」──それは責任放棄ではなく、責任を確実に果たすための構造です。
実は、最も危険なのは「自分の勘や判断でクリエイティブを通す」こと。
Adoさんはそこを避けた。
だから会社として「一切関与していない」と明言できたのです。
💬 元記事の“ブランド論”に見る誤解
ここで、元記事の核心的な主張をもう一つ引用します。
「『一切関与しておりません』との文言は、Adoブランドにまつわる手持ちのカードをすべて捨ててしまったに等しい声明だったのです。」
確かに、ブランド論的にはそう見えるかもしれません。
でも、ブランド価値とは「前に出る強さ」だけでなく、「出ない判断の慎重さ」によっても作られるものです。
Adoさんは“自分が全てを背負う”よりも、“正確な対応を組織で行う”ことを選びました。
それは一見、地味に見えるかもしれませんが、結果的には長期的な信頼を優先した判断です。
🌎 テイラー・スウィフトとの文化の違い
元記事はこうも書いています。
「たとえばテイラー・スウィフトやレディー・ガガなら、間違いなくプロジェクトの代表者として何らかの声明を発表するはずです。」
たしかに、アメリカでは本人が声明を出すこと自体がブランド戦略。
「私が決めた。私が責任を取る」という個人の信頼が、ビジネス価値になる文化です。
一方、日本では「組織が責任を取ること」が誠実とされる文化がまだ根強い。
「個人ではなく、仕組みで対応する」という姿勢が信頼につながります。
Adoさんはその後者を選んだだけ。
どちらが正しいというより、環境に合わせた最善の判断だったのです。
💡 “出ない判断”がブランドを守る理由
ここが重要な点です。
もしAdoさんが前に出て謝罪していたら、一時的に「責任感ある」と称賛されたでしょう。
でも、その構図が定着するとどうなるか。
「Adoの現場は、法的な観点を含め何らかの問題が起きたらクリエイター本人が全部背負う場所」──そう見られてしまう。
そうなれば、優れたクリエイターほど離れていきます。
責任が個人に集中する環境は、不安定だからです。
逆に、今回のように企業が全体の責任を取る構造を見せたことで、「ここは安心して参加できる現場。法的にもクリアな環境」という信頼が生まれた。
つまり、Adoさんが“出なかった”ことで、むしろ優秀なクリエイターが今後も集まる環境が作られた。
長期的には、これがAdoさんのブランドを守ることにつながります。
🔎 「謝罪パフォーマンス」と「実質的責任」は違う
ネットでは「本人がすぐ出て謝る=誠実」と思われがち。
メディアも、個人の謝罪会見の方が視聴率を取れるから、そういう演出を求めます。
でも、本当の誠実さは仕組みを正すことです。
Adoさんとレーベルは、
- 問題を認め、
- 責任を明示し、
- 関係者を守り、
- 対応を完了している。
これは「静かな責任の取り方」ですが、最も確かな方法です。
パフォーマンスは一過性ですが、構造は継続性を持ちます。
🪶 まとめ
「関与していない=逃げた」という批判は、表面的に“見えるドラマ”でしか誠実さを測っていません。
責任の大きさとブランド価値は確かに比例します。でも、その責任をどう果たすかは人と組織で違う。
Adoさんが選んだのは「出て個人的に謝罪する」ではなく、「専門家に任せ、組織で対応する」という道。
それは一見、地味に見えるかもしれません。
でも実は、最も難しい判断です。
短期的な称賛よりも、長期的な信頼を選んだ。
その判断の誠実さが、本当のブランド価値なのだと思います。
SmokeOutは、火のないところに立つ煙を、今日も静かに晴らします。