🎙 歌の話なのに、“差”の話になる不思議
Snow Manの新曲『BOOST』が配信され、
ミュージックビデオは再生340万回を突破。
ダンスも構成も圧巻で、
SNSは「9人の呼吸がぴったり」「エネルギーがすごい」と称賛もあります。
でも、ニュースの見出しはこうでした。
「Snow Man、新曲またも“歌割り格差”にファンもやもや」
“格差”。
その3文字だけで、少し冷たい空気が流れる。
歌の話なのに、どうして“差”の物語にしてしまうのか。
Snow Man、新曲またも“歌割り格差”にファンもやもや“先輩グループ”との違いで“令和の国民的アイドル”への試練
🪞「ファンの声」という名の過度の一般化
記事ではSNS投稿がいくつか紹介されています。
《歌割り偏りすぎじゃない?》
《またあべだてふか少ないの?》
そのあとに出てくる一文がこれです。
「ファンの間で議論を呼んでいる」
——でも、本当に?
これは典型的な過度の一般化(Hasty Generalization)。
SPJ(Society of Professional Journalists)倫理規定では、
“Avoid stereotyping and guard against assumptions based on limited observations.”
「限られた観察に基づく思い込みを避けること」
と定義されています。
つまり、数件の投稿を“ファンの総意”のように見せてしまう構造そのものが問題です。
報道の役割は声を“増幅”させることではなく、“輪郭”を示すことのはず。
🌙「格差」という言葉の強さと、構造比較の誤謬
“歌割り格差”という言葉。
確かにインパクトはあるけれど、“格差”とは本来、機会や権利の不平等を指す言葉です。
9人のグループにおける歌のパート配分を“格差”と呼ぶことは、厳密には構造比較の誤謬(False Analogy)です。
記事では、嵐を引き合いに出してこう書かれています。
「嵐は5人均等の歌割りになり、国民的アイドルとして親しまれた」
けれど、Snow Manは9人。
楽曲構造もフォーメーションも異なる。
同じルールで比べれば、どんなグループも“格差”になってしまう。
多様な役割を“平等”という尺度で測ると、個性の調和が“差”に見えるという逆転現象が起きるのです。
💫“国民的アイドルになれるか”という終末予告法
記事の結びはこうです。
「9人は、令和の“国民的アイドル”になれるか──。」
この“──。”の余韻。
どこかで聞いたことがありませんか?
そう、これはニュースがよく使う終末予告法(Apocalyptic Framing)です。
「終わる」「試練」「存続」などの言葉を用いて、読者の“危機感”を引き出すレトリック。
UNESCO報道倫理ガイドライン(参照リンク)でも、
「報道は、人々の希望や恐れを利用してはならない」
と明記されています。
不安を物語化するより、今この瞬間の努力と調和を丁寧に描くことこそ、報道の誠実さではないでしょうか。
🕊“少ない”は“薄い”じゃない
歌割りが少ないメンバーがいるのは事実。
でも、それを“冷遇”と呼ぶのは違います。
たとえば、深澤辰哉さん。
ステージでの立ち姿、目線の置き方、フォーメーションの支え方。
声を張らなくても、存在が曲の輪郭を作っている。
これはSmokeOutでいう非言語的貢献の可視化(Non-verbal Contribution Framing)。
「目立たない=価値がない」という発想を正す視点です。
ソロが少なくても、その呼吸が音楽をつないでいる。
それが9人のパフォーマンスの本質です。
💬ファンはちゃんと見ている
報道が“格差”を描くたびに、ファンの中にはこんな声もあります。
「少ないからかわいそうなんて思わない。9人で作ってる音楽なんだから、みんなちゃんと輝いてる。」
この言葉こそ、最も誠実なファクトです。
歌割りの数字より、心の共有。
誰が前に出ても、後ろに立っても、
ファンは“全員でSnow Man”を見ています。
🪶 見出しリライト
元タイトル
Snow Man、新曲またも“歌割り格差”にファンもやもや
SmokeOut基準
Snow Man新曲『BOOST』——9人で響く調和のハーモニー
🌱 まとめ:数字より、呼吸でつながるグループへ
“歌割り”の多い・少ないは、あくまで表の分担。
でも本当の音楽は、声を出していない時間にも流れている。
9人が同じステージに立って、同じ方向を見て、同じ空気を吸っている。
それだけで、もう十分に“ひとつの音”です。
SmokeOutは、火のないところに立つ煙を、今日も静かに晴らします。